同時に

 私は、冷蔵庫の奥にあった小さな包みを取り出した。
 扉を閉めてから身体の向きを変え、仕事から帰宅しリビングの椅子に腰かけている人へと視線を移す。
「――お師匠」
 私は呼びかけてから、師のもとへ行こうと足を動かした。
「泰明、どうした?」
 柔らかな声で私の名を呼び、お師匠はこちらを見る。
 師のすぐ前に立ち、私は深く呼吸をしてから唇を動かした。
「……これを、受け取っていただけないでしょうか?」
 手に持った包みを、差し出す。
 お師匠は短い沈黙の後、穏やかな笑顔で口を開いた。
「……バレンタインデーの贈りもの、ということで良いか?」
「――はい」
 その問いかけに、頷く。
 二月十四日。日頃の感謝と想いを伝えるため、フィナンシェを作ったのだ。
「……ありがとう」
 綺麗な手へと、包みが渡る。
 そのことに安堵はしたが、ひとつ気になることがあったので、私は尋ねた。
「――お師匠、今日はお疲れですか?」
 師の声は、普段と同じように優しい。だが、いつもより少しだけ掠れているような気がしたのだ。
 お師匠は、目を見開く。だが、先ほどの包みを机に置いてから、返答してくださった。
「……そうだな。少し、疲労はしている。だから」
「――お師匠?」
 決して瞳を逸らさず、師はこちらを見つめている。
 その理由が知りたくて、息を呑んでから呼びかけた。
 そして、お師匠の唇が動き始める。
「……出来れば甘味だけではなく、お前にも癒されたい」
 私は、目を見開いた。
 確かにお師匠は、この数日間普段以上に忙しく働いておられた。疲労が溜まっているのは本当のことだろう。
 その疲れを少しでも和らげることが出来るのならば、出来る限りのことはしたい。
 甘味と私。それを同時に感じていただくにはどうすれば良いだろう。
「――分かりました」
 しばらく思考を巡らせると、結論が出た。
 机の上にあった包みを持ち上げ、中のフィナンシェをひとつ取る。
「泰明――」
「……お師匠。口を開けていただけますか?」
 不思議そうな視線をこちらへ向ける師に、問いかける。
 私がその口へと菓子を運べば、甘さも私も同時に感じることが出来るはずだ。
 瞬きもせず、師はこちらを見る。
「……食べさせてくれるのか?」
 だがほどなくして、お師匠の唇は綻んだ。
「……はい」
「……いただこう」
 深呼吸をしてから、私は頷く。すると、私の手を引き寄せ、お師匠は口を開けた。
 ゆっくりとフィナンシェを食べてから、私の指にも師は唇を寄せる。
「――っ、お師匠」
 指先に感じた微熱に、身を震わせたとき。
 私の手は、解放された。
「……とても美味しいな。それに、元気を貰えた。ありがとう、泰明」
「いえ……」
 柔らかく笑い、師はこちらを見る。
 その声は、もう掠れてはいなかった。緊張はあったが、お師匠の力になることは出来たようだ。
 安堵し、息を吐いた、そのとき。
「私もお返しをするべきだな。泰明。隣に座って、口を開けてくれるか?」
 師の声が、聞こえた。その手は上品な包みと、キャラメルを持っている。恐らく傍らにある鞄の中にあったも
のだろう。
 鼓動が、速くなる。だが、嫌悪感はない。
 私は小さく返答してから、お師匠の隣に座った。


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