初めての雪

 泰明は寒風を感じながら、北山に向かって歩いていた。その手には丁寧に包んだ薬が握られている。
 今日は休日だ。誰かの依頼を受けて行くわけではない。私用があるのだ。
 しばらく曇り空の下を歩き続け、泰明は北山の巨大な松の前に辿り着いた。
「天狗、泰明だ」
 上を見つめ呼びかける。僅かな間を空け、豪快な羽音が響いた。
「おー、お前か。何の用じゃ?」
 木の上から一人の大男が下りて来た。一見普通の人間に思えるが、彼は天狗だ。変わり者に見えるが、位は最
も高い。泰明の師匠、晴明の友人でもある。
「お師匠からだ」
 そう言うと泰明は、手に持った薬を天狗に差し出す。
 今朝晴明と朝餉を摂っていた折、この薬を北山の大天狗に届けてくれないか、と頼まれた。その命を受け、泰
明は天狗に薬を渡しに来たのだ。
「ああ、これか。晴明が調合した薬は二日酔いに良く効くんじゃ」
 天狗は笑顔でその薬を受け取った。
「……お前は酒を飲みすぎだ」
 やや呆れたような顔で泰明は言う。
「何じゃ、心配してくれるのか?」
「……」
 泰明は俯いた。この男と話すと、どうも調子が狂う。
「否定はしないのか」
 天狗は楽しそうに笑う。そして泰明の髪を大きな手で軽く撫でた。
「……そういや、お前と二人で話すのは初めてじゃな」
 天狗はそう言って目を細めた。
 泰明が生まれたのは数ヶ月ほど前だ。天狗とは生まれて間もない頃に知り合った。晴明と二人、北山に行った
のだ。
 それから晴明を含めた三人で会う機会は幾度もあったのだが、二人きりで会うのはこれが初めてだった。
「……そうだな」
「どうじゃ、仕事は上手くいっているか?」
「問題はない」

 他愛のない話をしばらく続けた後、泰明が会話の途中にふと天を見上げた。
「……」
「ん、どうした泰明?」
 急に黙って空を仰いだ泰明を不思議に思い、天狗が尋ねる。
「天狗、私は帰る」
 簡潔にそう答え、泰明は速足で歩き出した。
「え?おい、ちょっと待てよ泰明!」
 天狗は慌てて泰明の手首を掴む。何故いきなりこの場を離れようとするのだ。
「……いきなり何をする」
 泰明は天狗を睨む。
「こっちが訊きたい。何でいきなり帰るなんて言い出すんじゃ」
 やや強引に泰明の身体を引き寄せた。
「元々用を済ませたらすぐに帰るつもりだったのだ。だがお前がつまらぬことを話し出すから――」
「つまらぬとはなんじゃ。お前もうちょっと口の利き方を勉強しろ」
「お前に言われたくない」
 泰明は眉間に皺を寄せる。普段他の者に同じ様なことを言われても気にも留めないのだが、天狗に言われると
何故か返事をしてしまうのだ。その上、いつもよりも口数が多くなる。その自覚はあった。晴明を含めた三人で
話をするときでさえそうだったのだ。
「お前なあ……」
 天狗は肩を落とす。そのとき、泰明がもう一度天を仰いだ。
「……」
「おい、泰明――」
「……降り出した」
 その言葉に反応し、天狗も空を見る。
「あ、雪か」
 小粒の柔らかな雪が寒空から舞い始めていた。
「……本当は振り出さぬ内に帰ろうと思っていたのだ」
「あー、そういうことか。そりゃ引き止めて悪かったな」
 天狗は泰明の頭に手を乗せ謝罪する。
「まっ、雪が止むまでここにいろ。この木の下なら雪も避けられるじゃろう」
「何を言っている、私は――」
「固いこと言うな、少しの間じゃ」
 天狗は膝を曲げ、泰明の目を見つめた。力強い、金色の瞳。
「……分かった」
 その目で真っ直ぐに見つめられ、泰明は思わず頷いた。

「泰明、雪を見るのは初めてか?」
 天狗が訊く。雪は静かに降り積もっていた。
「……そうだ」
 天狗の隣に立っていた泰明が返事をする。雪がどのようなものか理解はしているが、実際に見るのはこれが初
めてだ。
「そうか。初めての雪を儂と一緒に見られて嬉しいじゃろ」
「……」
 泰明は閉口し、答えない。
「嬉しくて言葉も出ないか……そういや泰明、何でお前が薬を届けに来たんだ?今日は晴明も休みじゃろ?」
 天狗は泰明の顔を見ながら尋ねた。
「たまには天狗と二人で話すのも良いだろう、とお師匠がおっしゃった」
 白い息を吐きながら泰明は応じる。
「ははっ、アイツらしいな」
 天狗は笑いながら視線を元に戻す。泰明は、その横顔をそっと見つめた。
 天狗は変わっている、と泰明は思う。最高位に当たるとはとても思えぬ、軽い言動。しかしどこか荘厳な雰囲
気があり、目を合わせれば全てを射抜かれるような錯覚に陥ってしまう。
 だが、天狗の隣にいることは決して不快ではなかった。
「……泰明」
 不意に天狗に話しかけられ、泰明は思わず身じろいだ。
「……何だ」
 その問いには答えず、天狗は泰明の肩を抱き寄せる。
「なっ……」
「お前、すげえ寒そう」
 天狗は手に力を込めた。
「……寒くなどない、離せ」
 泰明は天狗を睨む。しかし、天狗は肩に置いた手を離そうとはしない。
「嘘吐け、お前馬鹿みたいに細いから寒いじゃろ」
「……だから寒くなどないと言っているだろう」
 確かに冷気を感じてはいるが、耐えられぬほどの寒さではない。
「いいや寒いに決まっとる」
「寒くなどない」
 泰明を逃がさぬようにしっかり肩を抱く天狗。天狗から離れようとする泰明。
 そのようなやりとりをしている内に、いつの間にか雪は止んでいた。
「……止んだ」
 小さな声で泰明が言った。天狗もその言葉に手の力を緩める。
「ああ、止んだか」
 泰明は素早く天狗から身体を離した。
「……私はもう帰る」
 そう言って、泰明は走り出す。
「あっ、おい!」
 天狗が声を発する頃には、既に泰明の背中は小さくなっていた。
「……変な奴」
 泰明の背中が完全に見えなくなった後、天狗は手に残った温もりを感じながら、笑った。





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