低い囁き

 愛しい人の部屋、ベッドの上。私の隣には、お師匠が座っている。休日の朝は、こうして共に迎えることが多い
のだ。
 そして今、お師匠はガトーショコラを口に運んでいる。あまり行儀は良くないかもしれないが、これには理由があ
る。
 お師匠が召し上がっているケーキは、バレンタインデーの今日、私が贈ったものなのだ。
「――お師匠」
「どうした?」
 そっと声をかけると、お師匠は手を止めて私のほうを向いた。ケーキはもう、半分ほどなくなっている。
「……お口に合いますか?」
 もっと早くに尋ねたほうが良かっただろうか、と思ったが、訊かずにはいられなかった。味の確認はしたが、お
師匠が喜んで下さるとは限らない。先ほどいただいた手作りのチョコレートプリンは大変美味だったが、私が用意
したものはどうなのだろう、という不安があった。
「愚問だな。お前が作ってくれたものだ。合わないはずがないだろう」
 お師匠は膝の上にフォークの置かれた皿を載せ、唇を綻ばせた。視線も皿の上ではなく、私に送られている。
「――ありがとうございます」
 私は安堵の息を吐く。穏やかな表情が、不安を溶かして下さったのだ。
「――それはこちらが言うべきことだな。泰明、ありがとう」
「……はい」
 片方の掌が、私の頭をなでている。頬に熱が宿り、少し俯いた。
「ところで泰明。このケーキ、少しラム酒が入っているな?」
「はい。そのほうが風味が増すそうです」
 その言葉に、私は下に向けていた視線を上げた。確かに、僅かだが生地にはラム酒が含まれている。決して多
くはないその存在に気付くとは、流石はお師匠だ。
「お前はあのような香りを好んではないだろう。大変だったのではないか?」
 お師匠は、この身を案じて下さっているようだ。しかし、そのようなことはない。
「ですが、お師匠は酒を好まれますから」
 お師匠も知っている通り、私はアルコールが好きではない。だが、このケーキを作ることは苦ではなかった。
 愛しい人が笑って下さることを、願っていたからだ。そのためならば、少しの間酒の香りに耐えることなど難しく
はない。
「――そうか」
 お師匠は、膝の上に置いていた皿を近くにあったサイドボードに移した。自由になったその両腕が、私に伸び
て来る。
 そして、直後に私の身体は、お師匠の体温に包まれた。
「……お師匠?」
 ごく小さな声で、私を抱きしめる人を呼ぶ。急に、どうされたのだろう。
「――ありがとう。私のために、努力してくれたのだな」
 低い囁きが、耳に届く。
 鼓動が速い。酒ではなく、お師匠の存在に、私は酔ってしまったようだ。


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