一本の傘

  壁にかかった時計を見て、私は息を吐いた。
「――天狗は遅いな」
 テーブルを挟み向き合う位置にある椅子に座った師匠も、時計に目を向ける。
 クリスマス・イブの今夜、この家で宴を開くことを天狗が提案した。既に準備は整っており、泰継もここにいる。
 だが、開始時刻の八時を十分ほど過ぎているというのに、宴の発案者はここにいない。泰継の話によると、仕事
が長引いていたらしい。
 ただ、三十分ほど前に電話をしたとき仕事は終わったと話していた。しかし用事があるのか、そのときは自宅マ
ンションにいたようだ。マンションからこの家までは歩いて十分程度で着く。
 だが、天狗は姿を見せない。一体何をしているのだろう。このままでは、天狗に逢えないような気がする。
 それは困る。私は――天狗に逢いたい。
「……お師匠。天狗を迎えに行ってもよろしいでしょうか」
 私は師に尋ねた。天狗に、逢いに行きたい。
「――ああ。泰明、頼む」
 師は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに微笑んでくださった。
「――はい。泰継、すまないが少し待っていてくれ」
「ああ、分かった」
 斜向かいの席に座った泰継に告げ、私は身支度をするため自室へ向かった。
 
 コートを身につけ、折り畳み傘二本を鞄に入れる。それから、数日前から用意していた包みも中に入れた。
 自室を出て、靴を履いてから玄関の扉を開ける。湿った冷気を含んだ風が吹き付けて来た。
 この時刻、元々人通りの少ない家の前の道に他の者はいない。夜気を感じながら、歩を進める。
 早く、逢いたい。
 一歩進む度に、想いが膨らんで行く。
 それから五分ほど歩き続けたとき、ふと私は足を止めた。
 逢いたい者が走って来る音がする。
 胸の鼓動が、速くなった。
「……泰明?」
 曲がり角からその者――天狗は現れた。
 よほど急いで来たのか、元から癖のある髪が更に跳ね上がっている。額には微かに汗が浮かんでいた。纏って
いる薄手のコートも、今の天狗には不要なものだろう。肩を大きく上下させているため、右手に提げた黒い鞄とワ
インバッグも揺れていた。恐らく、ワインを取りに行くために一度マンションに帰ったのだろう。師に贈るのだろう
か。
「……天狗」
「――迎えに来てくれたのか?」
 深く呼吸をし、天狗は言う。少し驚いているようだ。
「――ああ」
 そう、私は天狗を迎えに来たのだ。頷くと、天狗は私の目の前に来て身を屈めた。
「……遅れて悪かった。それから……ありがとう。迎えに来てくれて。お前に、逢いたかった」
 微笑した顔が、すぐ近くにあった。
「――問題ない」
 目を伏せて、私は答えた。冷えていた頬に熱が宿る。天狗も、私に逢いたいと思ってくれていたのだろうか。私に
逢うために急いでくれたのだろうか。
「ははっ、そうか。でも……」
 急に、天狗が私の手を握った。
 大きな手に包まれ、頬の熱が更に強くなる。
「――天狗」
 顔を上げると、更に強く手を握られた。
「泰明。身体……冷えてるな」
 言いながら手を離すと、天狗は鞄を開け、美しい包みを取り出した。
「天狗……?」
 意図が分からず尋ねる。すると、包みの中から墨色のマフラーが現れた。
「これでも巻いてろ」
 首に、柔らかなマフラーをそっと巻かれた。覆われた部分が温かい。
「――良いのか?」
「――ああ。行くぞ、遅れているのだろう」
 天狗は、家へと進み始めた。
 だが、私にも贈りたいものがある。
「――待て。これを……受け取れ」
 振り返った天狗に、鞄の中にあった包みを差し出す。
 それを手に取ると、天狗は素早く包装を剥がし、箱を開けた。
 中に入っているのは、一枚の護符だ。
「……護符か?」
「――お前を守護するようにまじないをかけた。だが、効果の保障は出来ない」
 風変わりなこの男は、いつ何をするか分からない。優れた力があるとはいえ、時には危機に陥ることもあるだろ
う。僅かな効果しかないかもしれない。だが、私の作ったこの護符が、少しでも天狗の身を守ることが出来れば良
い。
「――泰明、ありがとう」
 箱を閉じ鞄にしまうと、天狗は笑顔で私に言った。
「――ああ」
 胸に、心地良い温かさが広がっていた。
「行くか?」
「――行く」
 天狗に答え、共に歩き出す。
 その瞬間、白く冷えたものが空から舞い始めた。
「――おお、雪か!」
 白い息と共に天狗は歓声を上げた。粉のような雪が静かに降っている。
 私は、鞄から二本の折り畳み傘を取り出した。
「――天狗、お前も傘を差せ。持ってはいないのだろう」
 一本を差してから、もう一本を掌で雪を受け止めている天狗に示した。この様子だと、傘の用意はしていないの
だろう。念のために二本持っていて良かった。
「――いらん。お前のに入れろ」
 しかし天狗は傘を受け取らず、笑みを浮かべて私を見る。
 驚いた。だが。
 嫌、ではなかった。
「……勝手にしろ」
 天狗に渡すはずだった傘を鞄にしまい、私は腕を上に伸ばして天狗の隣に立った。こうしなければ、天狗の頭上
に傘は届かない。
「ああ。おっと……すまん。腕、辛いだろう。儂が持ってやる」
 傘の柄を持ち、隣にいた男は私に笑いかける。
 何も言えず、私はただ天狗に身を寄せた。


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