愛しい者の腕

「泰明」
 陽の傾いた空を進んでいる途中、自身を抱えている天狗に声をかけられ、泰明は顔を上げた。
「……何だ?」
 柔らかな光を浴びながら、泰明は小さく息を吐く。
 少し前、一日の仕事を終えた泰明は帰路に就いていた。そして北山の近くを通った際、天狗に声をかけられたの
だ。
 初めは会話をしていただけだったのだが、その内天狗は口を閉ざし、急に泰明の身体を抱き上げた。抵抗する
間もなく、こうして共に飛翔することになってしまったのだ。
「いや、今日は大人しいと思っただけだ」
「――この状況で抵抗すれば落下する」
 笑っている天狗から、目を逸らす。これも嘘ではないが、抗わない理由はもうひとつある。愛しい者の腕から逃れ
たいなどと、願うはずがないのだ。
「まあ、それはそうだな」
 泰明は、そっと視線を戻す。天狗は朗らかな表情のまま、速度を上げて晴明の邸を目指していた。その横顔は、
泰明の胸を高鳴らせる。
 生まれたばかりの頃は、幸せはもちろん不幸すらどんなものなのか知らずにいた。そんな自分に幸せを与えて
くれたのは、間違いなくこの男だ。
 抱きしめられるときも、隣に立つときも、揶揄されるときさえ、温かなものに包まれているような気持ちになる。天
狗のことを、失いたくないと思うのだ。
 自分は今、幸せを知っている。
 だが同時に、それがなくなってしまうことが恐ろしい。もしもこの温もりが消えてしまったら、壊れそうなほどの不
幸を味わうだろう。
 想像しただけで、身体が震えた。
「……天狗」
「何だ?」
 思わずそう呼ぶと、天狗はこちらを向いた。だが、言葉が続かない。
「……私、は」
 不安を訴えれば、天狗を心配させ、悲しませてしまうだろう。何も伝えられないまま、泰明は俯く。
 しかし、すぐに身体を支えている腕に力が込められ、泰明は再び天狗を仰いだ。
 愛しい者が、自分に微笑みかけている。
「――泰明、ちゃんと掴まっていろ。もっとも――お前がしがみつかなくても、どこかへ置いて行ったりはしないが
な」
 何も、告げてはいない。だが、泰明の暗い感情を全て散らすかのように、天狗は囁いた。
 そう、天狗は自分を置いて行ったりはしない。これからも、互いの温度を分け合うことが出来る。
 それは、とても幸せなことだ。
 泰明は天狗のうなじに腕を回し、強く抱きついた。


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