重なる願い

   空が漆黒に染まった刻、泰明は晴明の庵へと続く路を歩いていた。一歩進むごとに左頬が熱くなる。
(お師匠……貴方の傍にいたい……)
 これから逢う人を想うだけで、鼓動は速くなった。小さく息を吐き、足を止める。
 何故これほどまでに頬が熱くなるのか。何故晴明を求めるのか。
 それは、唯一の特別な感情を晴明に対して抱いているからなのだろう。そのことは泰明も自覚している。苦し
んでいるときに欲したのは、晴明の手だった。
 だが、この想いを告げることは出来ない。
(お師匠は……今でも北の方を深く想っていらっしゃる)
 晴明は二年前に妻を亡くしている。先日共に任務に就いた折、悲しそうに妻のことを語っていた。
 晴明は優しい。どんなときも変わらず泰明を迎えてくれる。そんな晴明に想いを伝えたら、きっと困らせてし
まうだろう。それに、いくら心を得たと言っても自分は晴明に造られた存在だ。このように想うことなど許され
るはずがない。
(それならば……この想いは沈め、弟子としてお師匠のために力を使おう)
 大切な人の表情を曇らせたくないから。想いは胸の奥へ封じ、晴明の役に立とう。
 そう心に決め、痛みを感じながら再び歩を進めた。

「お師匠、ご挨拶に伺いました」
「ああ。泰明――こちらへおいで」
 戸の前で声をかけると、中にいた晴明は穏やかに泰明を呼んだ。
「――はい」
 滑らかに中へ入り、靴を脱ぎ、晴明のすぐ前に正座する。就寝前に挨拶を交わすのは、以前からの習慣だ。
「――泰明……ゆっくり休め」
「はい。お師匠も……ゆっくりお休みになって下さい」
 いつも通りの言葉を交わし、瞼を閉じながら頭を下げる。
「ああ……」
 下を向いたまま、泰明は小さく目を開けた。耳に届いた晴明の声が、あまりにも辛そうだったのだ。何かを押
し隠しているような、低く、寂しい声。
「――お師匠?」
 顔を上げ、晴明の顔を見る。そこに先ほどまでの柔和な表情はなかった。沈痛な面持ちで、ただ泰明を見つめ
ている。
 戸惑いながらも瞳を逸らせずにいると、しばらく黙していた晴明が口を開いた。
「――泰明……何かあったのか?」
 ――呼吸が、出来なくなるかと思った。
「――お師匠……」
 何故、気付かれてしまうのだろう。
「――すまない。本当は、お前が話してくれるまで待とうと思っていたのだが……これ以上、苦しそうなお前を
見ていたくないのだ」
 晴明の手が頭に乗せられる。温かいと思うよりも先に、左頬の呪いに痛みが走った。
「……お師匠……」
 呟けば、痛みは更に強くなる。
 隠しておけるはずがなかったのだ。
 優しく、聡明で、いつも見守ってくれているこの人が、自分の乱れを感じぬはずがないのだから。
 息が苦しい。意識が、朦朧とする。
 この想いを封じることなど――出来ない。
「泰明、一体何が――」
「…………お師匠……私は……貴方を求めています……」
 ほぼ無意識の内に泰明は告げていた。目の前が、霞んで行く。
「――泰明……」
 微かに声が聞こえる。晴明は今、困惑しているのだろうか。それとも呆れているのだろうか。もう、分からない。
「……許されぬことだとは分かっています。おかしなことだとは分かっています……それでも私は……貴方の傍
にいたいと願ってしまう……」
 うわ言のようにそう伝えると、段々と意識は遠のいて行った。姿勢を保てず、倒れこむ。
「泰明!」
 温かな手が抱きとめてくれた――ような気がした。

「ん……」
「――気が付いたか?」
 目覚めたとき、その身体は晴明の腕に包まれていた。気を失う寸前に感じた温もりは、幻ではなかったようだ。
 だが、この温度を感じることはもう叶わない。まだ朦朧とする頭の中で、泰明は思った。
(私は……告げてしまったのか……)
 許されぬ想いを伝えてしまったのだ。晴明のもとを離れなければならない。
 ごく小さな声で、泰明は切り出した。
「お師匠……申し訳ありませんでした、私は――」
 この邸を出る、と言おうとした瞬間、晴明の手が左の頬に触れた。驚き、顔を上げる。
「……泰明……呪いが解けているな」
「あ……」
 言われて初めて気が付いた。確かに、呪いの気を感じない。
「――私を、愛しいと想ってくれるのか……」
「……お師匠……」
 晴明の声は悲しくも、優しい。顔に触れている掌が温かい。
 そう、愛しいのだ。この人が。他の者へと抱くどんな想いとも異なる、唯一の感情。常に求め、傍にいたいと願う
ただ一人の存在。
 泰明の胸が、甘く痛んだ。
「泰明……私の想いを、聞いてくれないか?」
 晴明は、泰明の双眸を覗きこむ。
「……はい」
 泰明は静かに頷く。不出来な弟子を何故叱らないのだろう、と疑問に思いながら。
「――ありがとう。泰明……私は、お前に大切なものを見つけて欲しいと思っていた。お前が生まれた日から、ずっ
と……」
 晴明の瞳は、少しだけ揺らいでいるように思えた。
「お師匠……」
 深い罪悪感を覚える。自分を守っていてくれた人に、何とおかしな想いを抱いてしまったのだろう。
「――お前はいつも真っ直ぐに歩いている。自分の存在に戸惑い立ち止まっても、きちんと前を見ていて……妻
を亡くしたあのときから動けずにいる私とは、違う……」
「………お師匠……」
 晴明は目を伏せる。泰明は、そう呼ぶことしか出来なかった。晴明の悲しみが切々と伝わってくる。
「――いつからか、私は望むようになっていた。お前の澄んだ瞳が私を映すことを。だが……私では、お前を幸
せには出来ないから……この想いは、断ち切ろうと思っていた……」
 泰明は、目を見開いた。
「お師匠……」
 初めて知る、晴明の気持ち。そこに偽りなどないということを、曇りのない眼差しが物語っている。
「けれど……駄目だった。お前が神子殿のために嘘を吐いたあのとき、お前の心の乱れが私にも伝わって……お
前をこの腕に抱きしめたいと思ってしまったのだ。私に逢えばお前はもっと苦しむかもしれぬと思い、何とか足
を止めたが……本当は、すぐにお前のもとへ走って行きたかった。お前が私を呼んでいることが、分かったから。
十日余り、私はお前のことばかり考えていた……いや――今も、お前のことばかり考えている」
 晴明は、震える指先で泰明の頬をなでた。
「――そう、だったのですか……」
 あのときの声は届いていたのだ。そして、晴明は強く自分を想ってくれている。
「――ああ。お前と神子殿が想いを通わせたとき、邸は光で満たされて……嬉しいはずなのに、私は寂しいと思
ってしまった。泰明、私は……お前と共に在りたいと願っている」
「お師匠…………」
 胸が、熱い。晴明も自分と同じことを願っているのだ。
「――先日お前と二人で任務に就いたときは堪えたが……もう、この想いを抑えることは出来そうにない。泰明
……私は、お前を愛している。お前と共に、在りたい」
 真剣な瞳が、泰明を捉えた。伝えたい、この想いを。
「お師匠……私も……貴方を愛しています……」
 言い終えた途端、涙が流れた。もっと話したいことがあったのに、言葉にならない。想いが形を変えて頬を濡
らす。
「泰明……ありがとう」
 晴明は微笑み、衣の袖でその涙を拭った。強く擦らぬように、そっと、零れ落ちてくる雫を受けとめる。
 その優しい動きが嬉しくて、泰明の瞳からまた、涙が溢れ出した。

「――泰明、口付けをしても良いだろうか?」
 泰明の涙が止まった頃、晴明は言った。
「お師匠……はい」
 泰明は瞼を閉じる。体温が、上昇していた。
「……愛している。大切な――私の、泰明」
 二人の影が、ゆっくりと重なった。


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