仮定は後に


 天狗は、腰を上げた。待ち人の気配を、感じたから。
「天狗」
 戸の前に着いたとき、予想していた通り声がした。
「来たか、晴明。まあ、適当に上がれ」
 静かに戸を開け、促す。
「分かった。失礼する」
 彼は穏やかに笑って、庵へと入った。
「早速夕餉にするか?」
 戸を閉めながら、天狗は問いかけた。
 今日、晴明はこの庵に泊まる。出来るだけ長く共に過ごしたいと思い、先日誘ったところ、すぐに許可を得る
ことが出来たのだ。
 夕餉もこちらで食すと聞いたので、ある程度まで準備は済ませている。仕上げをすれば食べられるが、用意し
たほうが良いだろうか。
 彼は、短い沈黙の後、口を開いた。
「――お前の隣に座りたい」
 天狗は、目を見開く。だが、嫌ではなかった。
「……分かった」
「ありがとう」
 円座のあるところまで歩き、楽な姿勢で座る。それから手を隣に置くと、晴明はゆっくりとそこに座った。
 共に、寛ぐことが出来る場所。より近くで、互いの存在を感じることも出来る。
 その横顔に視線を向ける。色付いた唇が、目に入った。
「――お前、唇が綺麗だな」
 思わず、小さな声で賞賛を告げる。
 彼の唇は、いつも美しい。艶があり、とても柔らかいのだ。
「確かに、あまり乾燥させぬようにはしている」
 晴明は、綻んだ唇をそっとなでた。
「動かないと、術も唱えられんか」
 見惚れて褒めてしまったが、唇を手入れするのも、陰陽師ならば当然なのかもしれない。
 そう思いながら天狗が呟いたとき、彼は首を横に振った。
「いや。お前が美しいと想い、その唇を寄せてくれたら、嬉しいからな」
 晴明は、その唇を指で軽く突いた。
 重ねたときの幸せを想起させるような、その動作。
 どうやら、自分は求められているようだ。
「――そうか」
 手を、ゆっくりと彼の頬に伸ばす。
 晴明が瞼を閉じたことを確認してから、そっと唇を重ねた。
 弾力があり、柔らかい。ずっと感じていたくなるような、唇だった。
「……そちらから来なければ、私がお前に寄せるつもりだった」
 解放したとき、彼はまた、笑った。
 自分がその唇を求めないことなど、ありえない。
 だが、晴明のほうから近付いてくれたとしても、きっと幸せを感じられたはずだ、と、思った。


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