均衡と許可

「泰明、もう帰るのか?」
 日が沈み行く時刻になった。空を見上げた天狗は、目の前にいる彼――泰明へと視線を移して尋ねる。
「そのつもりだ」
 彼は頷く。天狗は一歩泰明へと近付き、言った。
「そうか。では、送ってやろう」
 返事を聞く前に、素早くその身体を抱き上げる。
 任務で疲労しているというのに、彼は邸へ戻る前に自分のもとを訪ねてくれた。送って行くのが礼儀というも
のだろう。
「てん――」
「行くぞ」
 泰明の言葉が終わらぬ内に、翼を広げる。
 空へと舞い上がったとき、彼はため息を吐いていた。

「……泰明」
 しばらく飛んでから、天狗は少し速度を下げ、彼の名を呼んだ。
 今、自分たちは空の上にいる。当然のことだが、周囲に人の影はない。
「どうした――」
 泰明が口を開いた、そのとき。
 彼の唇を、自分のそれでそっと塞いだ。
 空に、人の影はない。だから、たまにはこのような変わった場所で泰明に近付きたいと思ったのだ。
 が。
 突然のことに驚いたのか、彼の身体が跳ねた。そのため均衡が崩れ、上手く懐抱することが出来ないのだ。
 もし地面に身体を打ち付けるようなことになれば怪我は免れないだろう。
「泰明!」
 名を叫び、必死に手の位置を変える。それから腕に力を込めると、ようやく先ほどまでと同じ体勢に戻ること
が出来た。
「――場所を弁えろ」
 安堵の息を吐いたとき、彼の声が聞こえた。
「そうだな。悪かった」
 小さく頭を下げ、謝罪する。泰明の言う通りだ。いくらふたりきりとはいえ、不安定な場所でこのようなことをし
てはいけない。
 気持ちを鎮めようと深く呼吸してから、邸を目指すため、もう一度翼を動かした。

「……もうすぐ、着くな」
 もう少しで彼の邸が見えて来るはずだ。天狗は呟き、泰明の唇へと視線を向けた。
「……どうした?」
 そのとき、彼の声が聞こえた。不思議そうにこちらを見ている。
 恐らく、見つめられていることに気付いたのだろう。
 目を合わせ、答える。
「――出来れば、もう一度お前の唇に触れたいと思っていた」
 不安定な場所でしてはいけないと分かっている。だが、やはり彼に近付きたいという気持ちは止められないの
だ。
 泰明は、横を向いた。まだこのようなことを言う自分に、呆れたのかもしれない。
 だが。
「……そう思ったときは、実行する前に言え」
 彼の、小さな声が聞こえた。その頬には、薄い紅色が浮かんでいる。
 天狗は、目を見開いた。
 つまり。実行する前に許可を取れば、今しても構わないということなのだろうか。
 確かめるために、問いかける。
「――泰明。唇を重ねたいから、目を閉じてくれないか?」
 彼はこちらに視線を向けてから、静かに頷いた。


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