量と充分

「泰明」
 夜が近付いてきた時刻。呼び鈴を鳴らすこともなく家に入り、天狗は目的の人物を呼んだ。普段、この時間は
晴明も彼も家にいるので施錠はされていないのだ。
「――天狗。どうした?」
 彼は、ほどなくして自分の部屋から玄関へと来てくれた。眉を寄せ、急な来訪者である自分に視線を向けてい
る。
「少し話があってな。ところで、晴明はどうした?」
 訪れた理由を告げてから、気になっていたことを尋ねた。先ほどから家主である晴明の気配を感じない。この
時刻は家にいるはずなのだが。
 そう思っていると、泰明の唇が動いた。
「出かけておられる」
「そうか……」
 天狗は呟く。晴明がいない、ということは、今この家にいるのは彼と自分だけであるということだ。これは偶然
なのか、それとも自分が来ることを悟った親友が、気を遣ってくれたのか。
「――どうした。用があるのなら早く言え」
 そのような思考を巡らせていた天狗は、泰明の声で我に返った。
 そう。彼の言う通り、確かに用事はある。
「そうだな。ほら」
 片手に提げていた小さな紙袋を、彼に差し出す。
 目を見開いてそれを受け取り、泰明は口を開いた。
「――これは?」
「お前にやる。バレンタインデーだからな」
 不思議そうな声を上げる彼に、説明する。
 二月十四日。大切な者に贈りものをして、気持ちを伝える日だ。
 袋の中には、手作りしたカップチョコレートが入っている。
「……そうか。ありがとう」
 泰明は少し沈黙していたが、ほどなくして小さく頭を下げた。
 その声は、先ほどよりも柔らかい。どうやら喜んで貰えたようだ。
「どういたしまして。ところで、お前は何も用意していないのか?」
 彼の頭に手を乗せ、問う。もちろん強制はしないが、泰明からも贈りものを貰えたらとても嬉しい。
「――ある。中に入れ」
 しばらくして、彼は静かに頷いてくれた。自分に背を向け、歩き出す。
「……分かった」
 靴を脱ぎ手近にあったスリッパを履いてから、天狗は彼の後ろをゆっくりと歩いた。何を貰えるのだろう、と
思いながら。

 ダイニングの椅子に腰かけてしばらく待っていると、泰明が台所から何かを持って来た。
「――これだ」
 テーブルの上に置かれたそれは、透明な袋で綺麗に包まれたチョコレートのパウンドケーキだった。恐らく、
冷蔵庫に保管していたのだろう。
 テーブルを挟み向かいに座っている彼に、尋ねる。
「……ありがとう。お前が作ったのか?」
「……ああ」
 泰明は、小さく頷いた。
 彼の気持ちが込められた手作りのケーキ。今すぐにでも味を確かめたい。
「そうか。では早速味を見てやろう」
 袋から素早くケーキを出し、噛り付いた。ほどよい甘さが、舌に広がる。
「――どうだ」
 泰明は少し驚いていたようだが、しばらくして不安げな顔で言った。
 味は申し分ない。だが。
「……美味い。だが少し量が足りんな」
 このパウンドケーキは小ぶりだ。全てを食べても恐らくもの足りないだろう。
「……そうか」
 彼は俯く。落胆させてしまったらしい。
 だが、その必要はない。
「――だが、まあ」
 椅子から立ち上がり、泰明のもとへと向かった。
 突然やって来た自分に、彼は訝しげな視線を向ける。だが。
 それに構わず、唇を重ねた。
 泰明の温もりが、伝わって来る。
「……天狗っ」
 しばらくして解放したとき、彼は声を上げてこちらを睨んだ。その頬には、仄かな朱が差している。
 泰明と目を合わせ、告げる。
「――これで満足だ」
 ケーキの量は少し足りなかったが、これでもう充分だ。彼の唇には甘味以上の価値があるのだから。
「……お前のすることは理解出来ない」
 泰明は目を逸らす。だが、その声から自分を拒絶するような棘は感じられない。
「――今日はありがとう。泰明」
 彼の頭をそっとなでる。自分を家に上げてくれたこと。それから自分のために贈りものを用意してくれたこ
と。本当に、嬉しかったから。
 ほどなくして、泰明は小さな声でああ、と答えてくれた。
 その反応が、愛しい。天狗はもう一度、彼の頭をなでた。


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