幸せを

 
「……泰明」
 老木の根元に座る泰明に、天狗はそっと声をかけた。
「――天狗……私の答えは、間違っているのだろうか?」
 泰明は虚ろな目をしたまま呟く。
 天狗は羽を広げ、泰明の前に降りた。
「泰明……」
 十日ほど前、泰明は生まれて初めて嘘を吐いた。小天狗の死を悲しむ龍神の神子の涙を止めるためだ。しかし
それによって顔の呪いが割れそうなほどに痛み、泰明は自身を見失ってしまった。ついには意識を手放し、北山
の泉に落ちてしまったのだ。天狗に助けられたことにより大事には至らなかったが、八葉としての力を使えなく
なってしまった泰明は、現在北山の天狗と共に過ごしている。
「だが……それが答えだったとしても、もう神子の傍には行けぬからな……」
 つい先ほど、泰明は天狗に言った。私にとっての幸せは、私と同じように神子が自分を思ってくれることなの
ではないか、と。しかし、八葉としての務めを放棄してしまった自分には、もう戻る資格はないと思っていた。
「……そんなこと、ないだろ」
 天狗は小さな声で言うと、どこか遠くを見ているような瞳をした泰明の頭に手を置いた。
「神子は、きっとお前に戻って欲しいと思ってるぞ」
「そうだろうか……」
 いつもは真っ直ぐに天狗の目を捉える美しい瞳は、悲しみに翳っていた。
「――泰明」
 普段はうんざりするほどにしっかりとこちらを見て、凛とした声で反論する泰明。しかし今は目を伏せ、抜け殻の
ように過ごしている。食事は全く摂らず、夜、褥に入っても眠っている様子はない。だがそれでも尚、泰明は神子
のことを強く想っている。そんな痛々しい泰明の姿を見る度に、天狗の心には痛みが走っていた。
「――天狗。もしも……八葉の使命も、陰陽師としての任務も果たせなくなったら、私はどうすれば良いのだろう
な……」
 泰明は消え入りそうな声で問う。
「――何もしなくて良い」
 意外な言葉に泰明は顔を上げる。刹那、天狗の手が伸び、泰明の細い身体を抱きしめた。
「てん……」
「お前がそんなに苦しむなら、もう何もしなくて良い!八葉も陰陽師も、全部辞めて良い!」
 天狗は腕に力を込め、悲痛な声で叫ぶ。
「全部辞めて――ずっとここにいろよ、泰明!何もしなくて良いから、儂の傍にいろ!」
 初めて会ったときは美しいと思っただけだった。その後、何度か会う内に生意気な子供だと感じるようになっ
たが、最近は呆れるほどに純粋な心に強く惹かれている。
 晴明の――大切な友人の愛弟子だから気にかけているだけだ、と、思い込もうとした。だが、違うのだ。泉に
落ちた泰明を見たあのとき、息が止まりそうになった。彼がいなくなることなど考えたくもない。傷付いている
姿など見たくない。神子のことを想っている泰明を見る度に、胸が激しく痛む。本当は、泰明のことを。
「天狗……莫迦なことを、言うな」
 泰明は、天狗の胸に額を押し当てる。
 しばらくすると、泰明は安心したように寝息を立て始めた。
「……泰明」
 起こさぬように小さな声で名を呼び、髪をなでる。衣の胸元が濡れていたが、今日は許そうと思った。
(目覚めたら、お前はすぐにでも神子のところへ行くのだろう)
 胸が、苦しい。だが、それでも。
(儂は、お前の幸せを願っておる)
 泰明が幸せならば、それで良い。天狗は、ゆっくりと目を閉じた。


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