その存在

「泰明」
 陽が、少し傾き始めた頃。私は、庵の戸を開けて彼の名を呼んだ。
「――お師匠」
 私が顔を出すと、戸の前に立っていた泰明は両の目を大きく開いた。
「――どうした?驚いているようだが」
「……今、戸を開けようと思っていましたので」
 泰明は伸ばしていた手を下ろす。私が声をかけたとき、まさに庵の中へ入るところだったのだろう。人が突然
現れれば、驚くのは当然だ。
「――そうか。急に出て来てすまなかったな」
「いえ……」
 しかし、私は心を乱そうと考えて戸を開けたわけではない。顔を仰ぐ泰明に、本当の理由を告げた。
「だが、お前を迎えることは私の喜びなのだ。お前がこの邸に――私のもとに帰って来てくれるときは、いつも
想いが溢れ出して来る」
 自分のもとに戻って来てくれる人がいる。ただそれだけのことが、とても心強く、幸せなのだ。澄んだ気を感
じるとき、近付いて来る足音を聞くとき、唇が綻んでいることが分かる。耐えられることもあるが、普段よりも帰
りが遅い日や今日のように早い日は、気持ちを抑えられなくなってしまうのだ。
「……お師匠」
 泰明は俯いた。しかし、頬は私を拒否していないと語っている。
 私は、まだ伝えていなかった大切な言葉を届けるために、口を動かした。
「――ああ、まだ言っていなかったな。お帰り、泰明」
「……ただ今、帰りました」
 顔を上げ、泰明は小さな、しかし美しい声で応える。
 その存在を確かめたいと思い、私はゆっくりと、彼に唇を寄せた。


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