確かな望み

　 暮色が広がり始めた刻、八葉としてその日の任を終えた泰明は師の庵へと向かった。
「お師匠、ただ今帰りました」
「ああ。お帰り、泰明。こちらへ来てくれるか？」
　僅かな音も立てずに戸が開き、奥から自分を招く声が響く。
「はい、分かりました」
　足を踏み入れると、開いたときと同じように音もなく戸は閉まった。沓を脱ぎ、晴明と向き合う形で端座する。
「――泰明、帰って来たばかりのところ悪いが、ひとつお前に頼みたいことがあるのだ」
　向かいに座した晴明が、静かな声で切り出した。
「はい、何でしょう？」
「実は今新しい術の研究をしているのだ。協力してはくれないか？」
　晴明は脇に置かれた書物を手に取る。
「はい。何をすれば良いのですか？」
「簡単なことだ。私が伝授した術を使ってくれれば良い」
「分かりました」
　晴明の役に立てるのならば、協力は厭わない。そう思いながら頷いた泰明に、晴明はありがとう、と微笑んだ。

「――では、今からお前に術を教える。効果は――後で説明しよう」
　深く呼吸をしてから、晴明は泰明に近付いた。
「はい」
　泰明は瞼を閉じた。雑念を払わねば、師の力を受けられない。
　気を静めるため大きく息を吸おうとしたとき、左の頬に温もりを感じた。思わず、目を開ける。
「泰明……」
　頬に触れた手はそのままに、晴明の唇が自身のそれに重ねられた。
「――っ！？」
　事態を飲み込めず、泰明は双眸を見開いた。しかし、口付けは徐々に深くなって行く。
　驚きはしたが不快感はなかったため、抵抗は出来なかった。
「……これで、伝授は完了だ」
　唇と手が離れた頃には、全身が熱に支配されていた。呼吸は乱れてしまっている。
「――お師匠……」
　行為の意味を問おうと見上げた先には、穏やかな笑みを湛えた晴明がいた。
「私の力をお前に与えた。これで術を使えるはずだ」
　笑みを崩さず、晴明は泰明の瞳を捉える。
　確かに、身体の一部を合わせれば相手に力を注ぐことが出来る。現に泰明の内にも晴明の気が満ちている。し
かし、唇を重ねる必要はなかったはずだ。
　だが、それは声にならなかった。
「――はい」
　鼓動が速い。泰明は小さく返事をし、俯いた。
「泰明、早速私に見せてくれないか？」
「分かりました……」
　晴明の言葉に答えてから、泰明は目を閉じて深い呼吸を繰り返した。乱れた気が少しずつ静まって行く。
　目を開き脳裏に浮かんだ印を組むと、辺りは白い光に包まれた。

「――ふむ、ここまでは上手く行ったようだな」
　光が消えたとき、術の効果は目に見える形で現れた。晴明は瞳を輝かせて【それ】を見る。
「――お師匠、これは一体……」
　泰明は息を呑んだ。受け入れがたい光景だ。
　すぐ隣に【自分】が座しているのだ。僅かな差異も見受けられない。隣にいるそれは、間違いなく【泰明】だ
った。
「――泰明」
　晴明は一度泰明に目配せすると、もう一人の泰明に声をかけた。
「お師匠……」
　横にいた泰明は両腕を伸ばし、晴明に抱き付いた。師に腕を絡める自分を、泰明はただ見つめることしか出来
ない。
「ふふ、何だ？」
　晴明は目を細め、抱き付いた自分の髪をなでている。
「愛しています。私は……貴方の傍にいたい」
　晴明の耳元に口を寄せ、理解しがたい存在は言った。その声は耳を塞ぎたくなるほどに甘い。
「――泰明。私も、お前の傍にいたいと願っている」
「お師匠……ありがとうございます」
　師に絡み付く、もう一人の自分。その姿は非常に見苦しい。
　泰明は素早く印を組んだ。このような自分を見ていたくない。
　発動したときと同じように辺りが白い光に包まれ、不可思議な存在は静かに消えて行った。

「――お師匠、この術は一体何なのですか？」
　隣に自分がいないことを確認してから、泰明は晴明に尋ねた。この術がどのようなものなのか、全く見当が付
かない。
　晴明は微笑し、口を開いた。
「これは、心の中の望みを具現化する術だ」
「望み……」
　望み。その言葉が頭の中を駆け巡る。
「さて、泰明。先ほどの言葉――あれはお前の望みなのか？」
　晴明は泰明を見つめた。
　その眼差しからは、逃れられない。
「――私は……」
　晴明に抱き付き、傍にいたいと言った自分を思い浮かべる。
　見苦しい姿ではあった。だが。
　その言葉に、偽りはない。
「もしも違うのならば、研究をやり直さなければならないな」
「――お師匠。あの言葉は……確かに私の望みです」
　頬に熱を感じながら、泰明は告げた。
　晴明の傍にいたい。それは、自身の確かな望みなのだ。
「――そうか。では……成功、だな」
　柔らかな声音で呟き、晴明は泰明の頬に触れる。
　泰明は、そっと瞼を閉じた。
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