嬉しい日

「泰明」
 窓辺に座る男が、私に笑いかけている。
「……来たか、天狗」
 現在、時刻は零時を過ぎたところだ。男が床に降りたことを確認してから、窓を閉める。そして施錠をし、私は
男――天狗に視線を向けた。
 私はいつも、窓の鍵をかけてから眠っている。だが昨日天狗に逢った際、日付の変わる頃に私の部屋を訪ねた
いと言われたので、施錠をせずに待っていたのだ。
 言葉通り、天狗は今、この部屋にいる。腰から上に服はない。二階にあるこの部屋まで来るのに背の翼を使っ
たからだ。服を着用していると破ける。
 そこまでしてこのような時間に部屋へ来る理由など、あるのだろうか。
「夜中に悪いな。眠いだろう?」
 尋ねようとしたが、それよりも先に天狗が口を開いた。
 この時刻、普段は確かに眠っている。だが、起きていることが苦痛になるほど遅い時間でもない。
「いや――」
 そう、伝えようとしたとき。
 急に、唇を天狗のそれで塞がれた。
「……目は覚めたか?」
 天狗はすぐ元の位置に戻り、笑いの混じった声で言う。
 鼓動が速くなったので目が覚めたことは否定しないが、突然あのようなことをしなくても良いだろう。
「――うるさい」
 手を胸に置き、私は横を向いた。今は、上手く反応出来そうにない。
「そうむくれるな。これで機嫌直せ」
 深く呼吸をしていると、視線の先に小さな箱を差し出された。
「……これは?」
 天狗の目を見ながら、訊く。綺麗に包装されているが、私が受け取っても良いのだろうか。
 そう思っていると、天狗は唇を綻ばせた。
「――誕生日おめでとう、泰明」
 言われて、気が付いた。
 今日は、九月十四日。私が生まれた日だ。
 それを祝うために、天狗はこの時間に部屋を訪ねてくれたということなのだろう。
「……そうか。ありがとう」
 礼を言って、贈りものを受け取った。この日を天狗が覚えていてくれたことも、祝ってくれたことも、本当に嬉し
い。
 天狗は笑みを崩さずに頷き、言った。
「中、見てくれ」
「分かった」
 言葉に従い、箱を近くのサイドボードに置いてから、美しい紙をゆっくりと剥がし、箱の蓋を慎重に開ける。
 中には、小型の赤いペンと革表紙の上品な手帳があった。
「……ちゃんと使えよ」
「……分かっている」
 そっと手帳を持ったとき天狗に言われ、頷いた。大切な者が贈ってくれたものを、使わないはずがないだろ
う。
「――そうか。では泰明、どのように使えば良いか教えてやろう」
 天狗は声を弾ませ、手帳を指差す。だが、手帳の使い道も分からぬほど私は無知ではない。
「……もう知っている」
 私は告げたが天狗はそれを聞かず、私の持つ手帳を勝手に広げると解説を始めた。
「良いことがあった日や、楽しいことが起きる日にはそのペンで丸を付けろ」
 この手帳にはメモをするページが多数あり、暦は小さなものしか付いていない。予定管理も出来るが、暦を確
認しながらその日に起こったことを書き留めることに向いているようだ。
「……子どものようだな」
 天狗の説明は間違いではないだろう。だが、暦に色付きのペンで丸を書き込むとは子どものようだ。嫌、とい
うわけではないが、そのようなことをする必要があるとは思えない。
 だが、天狗は小さく笑い声を上げた。
「お前は子どもだ」
「……黙れ」
 天狗は良く、私をこのように揶揄する。今は慣れたが、それでも不快だ。私は、俯く。
 だがその直後、頭に温もりを感じた。
「――泰明。ちゃんと今日――九月十四日にも丸を付けておけよ」
 思わず視線を戻すと、そこには優しい眼差しがあった。私は、息を呑む。
「……何故だ」
 小さな声で尋ねると、天狗は唇を動かした。
「――儂に逢えて、お前は嬉しくないのか?」
 優しいが、真っ直ぐな瞳。そして、低い声。
 目を逸らすことは出来ない。私は、自分の気持ちを告げた。
「…………嬉しい」
 愛しい者が、自分のもとへ来て、生まれた日を祝ってくれた。嬉しくないはずがない。
「――そうか。ではな、泰明」
 天狗はもう一度私と唇を重ねてから、笑顔で窓から去って行った。

 箱から、小さな赤いペンを取り出す。
 私は手帳の暦が載っているページを開いた。そして、ある場所に丸を付ける。
 天狗に逢えた日――九月十四日に。
 書き終えたとき頬が熱くなり、すぐに手帳を閉じた。


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