やめずに

 天狗は、朝の空気を吸い込んだ。この時間に美しい北山で深く呼吸をすると、良い気分で今日を過ごせるので
はないかと思えて来る。
 すぐ横に、視線を向ける。そこに立つ者――泰明は瞼を閉じていた。清らかな気を感じているのだろう。
 しばらくすると、彼はゆっくりと目を開けた。
「泰明」
 同時に、天狗はその名を呼び、彼のすぐ傍に身体を寄せた。
 そして、泰明が口を開くよりも早く。
 彼を、抱き上げた。
「……やめろ」
「やめん」
 一瞬目を見開いてから、泰明はこちらを睨み付けたが、解放するつもりはなかった。
 訝しげに、彼はこちらを見る。
「――何故だ」
 天狗は、小さく息を吐いてから、唇を動かした。
「……身体、痛むだろう」
 昨晩、泰明は誘いに応じて北山の庵に泊まってくれた。そして、その近くに行くことも許可してくれたのだ。
 とても、幸せな時間。だが、まだその身体には痛みが残っているだろう。少しでもそれを和らげたくて、彼を抱
き上げたのだ。
「――確かに、この姿勢ならば痛みは軽くなる。だが、これでは散歩にならぬ」
 泰明は瞬きもせずに視線をこちらへ向けていたが、ほどなくして、口を開いた。
 その言葉通り、朝の北山を歩かないか、と彼に提案したのは自分である。だが。
「別に歩かなくとも、景色や空気を堪能することは出来るだろう。これくらいのことはさせてくれ」
 泰明を誘ったのは、綺麗な北山を感じて欲しいと思ったからだ。無理に歩くよりも、楽な姿勢で辺りを見なが
ら呼吸をして欲しい。
 彼は、黙している。やはりどうしても下りたいのだろうか、と、思ったとき。
「……分かった」
 泰明は、小さく返答した。その頬は、薄い紅色に染まっている。
 天狗は安堵の息を吐いてから、腕に力を込めた。
 美しいこの地と、愛しい温もりを同時に堪能することが出来る。
 その幸せを感じながら、ゆっくりと、歩き始めた。


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