夜風の中で

 陽が沈み、静寂に包まれる刻。なるべく大きな音を立てぬよう注意しながら、天狗は晴明の住む庵の前に舞い
降りた。
 ゆっくりと手をかけ、戸を開ける。
「――儂だ、晴明」
「……来てくれてありがとう、天狗」
 静かに呼びかけると、奥に座していた晴明は落ち着いた声で返事をした。ここを訪ねる約束をした際、具体的な
時刻を言ってはいなかったが、そろそろ自分が来る頃だと分かっていたのだろう。
「――さて、どうする?すぐに始めるか?」
 単を纏い、薄暗い部屋にひとりでいる彼は、いつも天狗を高揚させる。はやる心を抑えながら、意見を訊いた。
「それでも構わないが……今日は、少し空を飛びたい気分だ」
 無駄のない動作で立ち上がり、こちらに歩を進める晴明。
「――分かった」
 彼を受け入れるために、両腕を広げる。晴明は唇を綻ばせると、強く抱きついて来た。

「――良い夜風が吹いているな」
「ああ」
 抱き上げて夜空へ羽ばたくと、晴明は柔らかな声で呟いた。その通りだ、と天狗も頷く。澄み切った涼気が、身
体を包んでいた。
 互いの庵で過ごすことが多いが、時折晴明を抱えこのように飛翔することもある。彼は、空が好きなのだ。
「空も美しい」
 晴明は感想を述べる。だが、その瞳は好んでいるはずの場所ではなく、天狗へと向けられていた。
 彼は視線を逸らさずに、小さく笑い声を上げる。
「……どうした?」
「――いや。ふと、この体勢がお前にさらわれているようだと思ったのだ」
 理由を尋ねると、晴明は微笑んだままその問いに答えた。
「……こうしろと言ったのはお前だろう」
 天狗はため息を吐く。空を飛びたがったのは彼のほうだ。その言い方では、まるで自分が罪人のようではない
か。
「すまない、怒らないでくれ」
「別に怒ってはいない」
 なだめるように謝る晴明に、笑いながら返答する。本当に気分を害したわけではない。昔からの付き合いだ、彼
の言葉にも慣れている。
「そうか……」
 安堵したように唇を動かした後、晴明は再び天狗に視線を向けた。
 今度は、口を噤んだままだ。何か考えているのだろうか。
「――何だ?」
 沈黙を不思議に思い、質問する。
 晴明は顔をこちらに寄せると、深い声で答えた。
「……私は、お前にならばさらわれても構わないと思っている」
「――晴明」
 天狗は目を見開く。しかし、晴明は続けた。
「どこへ行っても、共に在れば楽しい生活が出来そうだ」
 表情は、先ほどまでと同じように穏やかなままだ。だが、双眸の奥には確かな強さがあった。
 半分は冗談だが、半分は本気。そういうことなのだろう。
「――まあ、お前がいれば退屈はしないだろうな」
「――ありがとう」
 呼吸をし、気を鎮めてから言うと、晴明はより顔を近付けて来た。
「……だが、お前も含め、大切な者は近くにいる。それに、どこかへ逃げるほど儂は追い詰められておらん」
 彼を支えている腕に、力を込める。晴明がいればどこであろうと退屈はしない、というのは嘘ではない。だが、わ
ざわざ遠くへ逃げなくとも、自分にとって大切な者はすぐ傍にいるのだ。
 晴明も、彼の生意気な愛弟子も。
「――私も、同じだ」
 笑みの消えていない顔を、一層寄せられる。
 もう、こうするしかないだろう。天狗は夜風を感じながら、彼と唇を重ねた。


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