用意の前


 深く呼吸をしてから、私は、庵の戸に向かって、呼びかけた。
「――天狗」
 庵の主はすぐに現れ、戸を開けてくれた。
「良く来たな、泰明。とりあえず入れ」
「……分かった」
 頷いてから、静かに中へ入った。
 今日、私はこの庵で夜を明かす。先日、天狗に誘われたのだ。師の許可も得ているので、朝までゆっくり過ご
せるだろう。
「そういえば、夕餉の時刻だな。食べるなら、すぐ用意するぞ」
 私が沓を脱ぎ、室内に足を踏み入れたとき、天狗が口を開いた。
「急がなくとも良い」
 空腹感はあるが、それほど強くはない。支度を急ぐ必要はない。
 そう思いながら私が答えると、天狗は笑顔でこちらを向いた。
 そして。
「――分かった。では、しばらくこうしていることにしよう」
 私は、突如伸びて来た腕に、抱きしめられた。
「天狗……」
 小さな声で、私は呼びかけた。急に温もりを得たせいで、頬が熱くなる。
 天狗は、その手を私の頭へと伸ばしてから、唇をゆっくりと近付けて来た。
 思わず、息を呑む。だが、何とか瞼を閉じることは出来た。
 そのとき。
「天狗、泰明、いるか?」
 戸の向こうから穏やかな声が聞こえて来た。
 私は目を見開き、そちらへ視線を向ける。天狗も、同じく戸を見つめていた。
「お師匠……」
 何故、師が北山にいるのだろう、と思いながら私が呟いたとき、天狗は、そっと腕を解いた。
「――晴明。突然、どうした?」
 天狗は、息を深く吐いてから庵の戸を開けた。師は、唇を綻ばせている。
「いや、大した用ではないのだが、良い薬草が手に入ったのでふたりにも分けようと思ってな」
 お師匠は、持っていた薬草を見せてくださった。
「……ありがとう、ございます」
「すまない。本当はお前が出る際に渡すつもりだったのだが、失念していた」
 私は頭を下げ、柔らかな声で述べるお師匠から薬草を受け取った。
「――貰っておこう」
 天狗も、その手に薬草を持ちながら唇を動かしていた。
「では、邪魔をしてすまなかった。これで帰ろう。泰明。天狗とゆっくり過ごしなさい」
 優しい笑顔で、師は述べる。
「――はい」
 鼓動が、速くなったが、答えることは出来た。
 これから朝まで、私は天狗の傍にいる。共に過ごせることを、幸せだと思っているから。
 お師匠が戸を閉めた後、私は、一歩だけ天狗に近付いた。
 天狗は、一瞬目を見開いたが。
 すぐに、先ほどよりも強い力で、抱きしめてくれた。


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